ことばの二面性 〜「こだわり」と「エゴ」〜

こだわりパン屋を開く

こだわりパン屋を開く



ことばには裏表・二面性があるものだ。


いい方に取っても、悪いほうに取っても、間違いではないのだろう。


現実的な視点で見るか、相手の立場でものを考えるか。


どちらも正解だけれど、現実ばかり見ていては世の中がつまらなくなってしまう。


今日は、そんなことを考えた。





今日、山のふもとの温泉に行くついでにドライブがてら山に登ってみようかと思った。スキー場の近辺なので民家もほとんどなく、スキーシーズンも終わりかけているので人も車もまばらだった。初めて通る道だったが、スキー場の入り口の近くにパン屋の看板を見つけたので行ってみる事にした。



そんな閑散とした山の中に、そのパン屋はログハウスを構えていた。ドアには「工房で作業中です。御用のある方はベルを鳴らしてください」の張り紙が。ベルを鳴らして1分ほど待つと店主が現れ、店内へ案内してくれた。



徹夜明けで腹が減っていた私は、菓子パンや惣菜パンの類が食べたかったのだが、ショーケース(木を切り出しただけのテーブルに籐かごをいくつか置いただけのもの)には、食パンやバターロールなど、オーソドックスなものばかりで10種類くらいしかなかった。パンのサイズはいずれも子供の握りこぶし大くらい。値段は1個200円程度。ごく普通のパン屋と比較すればべらぼうに高い。



店主に話を聞くと、山の湧き水と天然酵母を使ってこだわり抜いたパンで、1日の生産量もあまり多くないそうだ。恐らく1個に200円取ったところで経営はギリギリのラインなのだろう。交通アクセスや人口のことなどを考えると、他人事ながら少々心配してしまったほどだ。



冷めた現実主義の私には、そんなパン屋が自己満足にしか見えなかった。店主曰く「自分でいいものだと自信を持てるものをお客様に食べてもらいたい」のだそうだが、スキー場の入り口付近までパンを求めに客は来るのだろうか。有閑マダムあたりにウケそうなパン屋ではあったが、そこがまた私の癪に触るのだ。もっとあんパンとかカツサンドとか庶民的なパンも置けよ、と。



自分の作ったパンを食べて欲しいなら、もっと人が集まるところに店を建てるべきだし、パンの種類や値段設定も考えてしかるべきだ。そうした方が色々といいのは目に見えている。きっとそこには「職人のこだわり」的な何かがあるのだろう。「こだわり」といえば聞こえがよいが、「エゴ」と言い換えるとどうだろうか。



「こだわりのパン職人」が「ワガママ高慢職人」に変わってしまう。「こだわってこだわって作ったパンです。数も少ないし値段も安くはないけど、お客様にどうか味わっていただきたい」というメッセージが、「俺の作ったうまいパンを食いたいなら山を登って店まで来い。この味がわからないならような舌を持つ客は2度と来なくていい。」に変わってしまうのだ。



これを「こだわり」ととるか「エゴ」ととるかは、一人一人の判断基準によって決められるものだ。何事にも表裏・二面性がある。それをよりよい方向に見ていけるならば、それは幸せなことだ。感受性が豊か、なのだろう。





それができなかった自分を、少し恥じた。






ちなみに、買ったパンは「オーブントースターで軽く熱してから薄切りにして、霧吹きで水分を含ませてから食べて欲しい」そうなので、車の助手席に置いたままだ。
一人暮らしの男の部屋にオーブンと霧吹きを要求するのは間違っている。





ふた口くらい齧った「あっさり塩味フランスパン」は、パサパサしてすごく不味かった。







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